伝統産業





赤穂塩(赤穂市)
赤穂の製塩は弥生時代に始まり、近世以降は入浜塩田による製塩業をいち早く確立、赤穂流

赤穂緞通(赤穂市)
赤穂には、直線曲線を巧みに織り交ぜた独特な文様と、繊細で美しい色合いを持つ敷物があります。それが、幻の緞通といわれる「赤穂緞通」です。桐島緞通(佐賀県)堺緞通(大阪府)と並び日本三大緞通と呼ばれ、その文様は現代においてもモダンで、中国や中近東の香りを漂わせています。この緞通は、赤穂に生まれ育った一人の女性が長い年月をかけて生みだしたものです。赤穂緞通の生みの親は、児島なかという女性です。彼女は文政6年(1823年)赤穂郡中村(現、中広)に生まれました。彼女は讃岐の国高松を訪れた時、中国緞通に出会い、その色合いの美しさと図柄の精巧さに感激し、試行錯誤を繰り返しながら緞通の研究を重ねたようです。赤穂は塩の生産地として広く世に知られていますが、赤穂緞通は、塩田と深く関わっています。塩田の作業に従事する女子の労働力が豊富にあり、品質の改良と、天蚕、絹、羊毛を用いたり、染色を工夫するなどの努力を重ねていきました。その成果が認められて需要も増え、明治31年(1898年)には天皇の御召列車の敷物として天蚕を使用した赤穂緞通が採用されました。その後、東宮御船用、枢密院玉座の敷物として絹糸を用いた緞通が納入されました。大正時代になり、ひとつの織り元に20〜30人程の織り子を抱える程の盛況ぶりでした。やがて、販路もニューヨーク、ロンドン、オーストラリアにまで広がっていきました。この大正の中頃から昭和の始め頃までが赤穂緞通の全盛期でした。しかし、昭和12年(1937年)原綿事情の悪化に加え綿花輸入制限を受けて緞通場の閉鎖を余儀無くされました。敗戦後再開されましたが、作業のほとんどが手作業である赤穂緞通は機械化に向かず、時代の流れと共に緞通場は次々と廃業していきました。

赤穂雲火焼(赤穂市)
江戸時代後期に始まる赤穂雲火焼は、大嶋黄谷により創出されたもので、陶土不明、焼成方法不明の幻の焼き物とされていました。象牙色の陶肌に黒色を加味した赤く燃え上がるような夕焼け雲を連想させる独特の紋様が特徴で、昭和54年ごろから桃井香子、長棟成光両氏の努力により復元に成功し、現在は兵庫県の伝統工芸品に指定され、赤穂の新しい郷土土産物として親しまれている。







近畿税理士会相生支部