大石内蔵助良雄(おおいしくらのすけよしたか)(赤穂市) 浅野家筆頭家老 1659〜1703年 これまでに実に多くの忠臣蔵を描くテレビ番組や映画が作られてきた。討ち入り後初めて上演されたのが歌舞伎の「仮名手本忠臣蔵」。明治以降も数ある映画作品の中で、二枚目俳優達が演じてきた忠臣蔵の主役といえば、いわずもがな大石内蔵助だ。作品によってさまざまな解釈かされてきたが、本当のところ彼の人物像はどんな風だったのだろうか。万治2年(1659年)、大石良昭の長子として誕生した良雄は、父の死後、19歳の若さで家督を継ぎ、浅野家家老となる。その容姿は色白の小太り説と色黒でやせ型説という2説があるが、いずれにしても小柄な人物であったことは確かなようだ。几帳面で計画性の高い性格な上に、武士の本職、剣術は免許皆伝の腕前。意外に知られていないのは達人の域に達していた絵や彫り物の芸術的才能。人をまとめる才や人格に長けていたのはいうまでもなく、才気あふれる大石内蔵助は、やはり歴史の主役たるべき、スーパーな人物であったといえる。 秦河勝(はたかわかつ)(上郡町) 秦河勝は聖徳太子の信任を受け、太子を助けて活躍したことで有名ですが、太子の没後、蘇我入鹿に追われて播磨に逃れ、赤穂の坂越に安住して千種川沿いを開発したと伝えられています。坂越の大避神社の祭神も秦河勝で、千種川沿いには秦河勝を祀る大避神社が30数社もありました。 大鳥圭介(おおとり・けいすけ)(上郡町) 1832〜1911 町役場玄関前にある銅像は岩木出身、幕臣から明治の外交官として活躍した大鳥圭介。閑谷学校卒業後、緒方洪庵の適塾に蘭学を学ぶ。ペリーの来航を知り、安政元年 江戸に出て洋式軍事法を研究した。同6年尼崎藩臣となり兵法教授をしながら、フランス式兵学を学んだ。 慶応2年幕府開成所洋学教授、のち歩兵奉行。明治元年 函館五稜郭で官軍と戦う。のち降伏。明治5年に出獄し、明治政府の開拓御用掛、清国特命全権公使、学習院院長など歴任した。のち功により男爵となる |